「賃上げは成長戦略」──医療・介護・保育の現場が動き出す5年間へ
2025年5月14日、政府は「第34回 新しい資本主義実現会議」にて、「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の施策パッケージ案を公表しました。掲げられた目標は、2029年度までに実質賃金を1%上昇させること。この数値は、単なるインフレ分を上回る、持続的かつ実効的な賃金上昇を意味します。
実質賃金1%の上昇―――一見控えめな数字ですが、その達成に向けて国は、60兆円規模の生産性向上投資を見込んでいます。注目すべきは、単に業種横断的な投資ではなく、医療・介護・保育を含む12業種を明示的に対象に据えていること。資料には、これらの分野における省力化の具体例や数値目標が明記されています。
その一端として、価格転嫁の徹底、生産性向上、事業承継、人材育成など、広範な施策が並びます。
【参考サイト】内閣官房サイト「第34回 新しい資本主義実現会議」
【参考資料】「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の施策パッケージ案
介護・医療・保育も含まれた12業種の省力化投資支援
明記された12業種に介護・医療・保育も
政府資料には、省力化投資を集中的に進める対象業種として、飲食業、宿泊業、小売業、生活関連サービス業、その他サービス業、製造業、運輸業、建設業、医療、介護・福祉、保育、農林水産業の計12業種が明記されています(PDF 9ページ他)。
これらの業種は、人手不足が深刻であり、最低賃金の引き上げに伴うコストの影響を強く受けやすいという共通点を持っています。介護、医療、保育は、いわゆるエッセンシャルワーカーが多く従事する現場であり、国民生活の基盤として政策上も重要視されている分野です。
現場の業務効率化と処遇改善を支援する具体策
介護分野は「8.1%の業務効率化」を目標に
高齢化の進展により、介護分野の人手不足は今後ますます深刻化すると見込まれています。政府はこの状況に対し、単に人を増やすのではなく、「人が辞めない職場環境」を構築するための手段として、テクノロジーの導入と業務の効率化を重視しています。
具体的には、特別養護老人ホームや老人保健施設、特定施設入居者生活介護の事業所を中心に、2029年までに8.1%、2040年までに33.2%の業務効率化を目指すと明記されています。これは単に“無駄を省く”という話ではなく、人員配置の柔軟化を含む、制度的・技術的な改革を意味します。
その実現のために、政府は以下のような省力化手段を推奨しています:
- 音声入力による記録の自動化
- 見守りセンサーやナースコールのICT化
- 移乗支援機器、排泄支援機器の導入
- インカムを活用した職員間の連携強化
こうした技術導入により、記録や見守りといった非対人業務を機械に任せることで、介護職員が「人に向き合う仕事」に集中できる体制を整えようとしています。実際、これらの導入によって残業時間の削減、離職率の低下、ケアの質の向上につながった事例も報告されています。
また、これらの取り組みが特定の大規模事業所のみで完結するのではなく、小規模事業所や地域密着型サービス事業者にまで波及するよう、政府は47都道府県にワンストップ相談窓口を設置し、技術導入に関する支援体制を強化するとしています。
医療分野では「医師の労働時間削減」を目標に
医療現場においても、人材不足と長時間労働の常態化が喫緊の課題となっています。特に、2024年度から医師の働き方改革(時間外労働の上限規制)が本格施行されたことを受けて、労働環境の見直しが制度的にも求められるようになりました。
政府はこの背景を踏まえ、2029年度までに医師の時間外労働を年間1,410時間にまで削減することを目標に掲げています(現状は年間1,860時間)。これは単なる目標設定ではなく、医療機関の勤務体制や業務設計そのものを根本から見直すプロセスでもあります。
具体的な施策としては、以下のようなICT・DX導入が例示されています:
- 電子カルテへの音声入力とバイタルサインの自動記録
- インカム等を活用した看護師間の連携効率化
- 医師のスケジュール・勤務時間の一元管理
- 看護業務の効率化を促進する情報基盤の整備
さらに、医療現場ではタスクシフト(業務の役割分担)やタスクシェア(業務の共有)を進めることも生産性向上の重要な要素として位置づけられており、特に看護業務の一部を他職種へ委譲することで、医師や看護師の負担軽減が期待されています。
これらの取り組みを支援するため、各都道府県には医療勤務環境改善支援センターが設置され、労務管理や経営改善に詳しいアドバイザーによる支援が行われています。単なる機器導入ではなく、労働環境の構造改革として進められる点が、医療分野における省力化投資の特徴です。
保育分野では「子どもと向き合う時間の確保」
保育分野もまた、慢性的な人材不足と業務過多に直面しています。特に、保育士の事務作業が増え、子どもと接する時間が減っている現状に対し、政府は「子どもと向き合う時間をどう確保するか」という観点から施策を展開しています。
今回の計画では、保育現場へのICT導入が重要課題として取り上げられており、間接業務の効率化を通じて保育士の働きやすさとやりがいの両立を目指しています。具体的には、以下のような取組が紹介されています:
- 登降園管理の電子化(ICカード・QRコード)
- 保護者との連絡帳や写真共有のアプリ化
- 指導計画・保育日誌などのテンプレート化・自動化
- 業務全体の見える化と負担の分散
こうした取り組みによって、保育士一人ひとりが担う業務量の偏りを抑え、チームで支え合う体制を築くことが可能になります。また、保育士の心身の負担が軽減されることで、離職防止や再就職促進にもつながると期待されています。
なお、ICT導入を支援するための補助金や支援制度の案内も整備が進められており、特に小規模園や認可外施設でも使いやすい仕組みの構築が意識されています。
制度を“使える現場”になるには
「申請すればもらえる」ではなく「選び方が肝心」|支援制度の一覧(一部)
現在動き始めている主な支援制度には以下のようなものがあります:
- 中小企業省力化投資補助金
- IT導入補助金
- 介護テクノロジー導入支援事業
- 賃上げ支援助成金パッケージ
- 業務改善助成金
- 医療勤務環境改善支援センターによる伴走支援
- 各都道府県のワンストップ相談窓口
これらはどれも「わかりやすいようで、実は判断が難しい」制度です。対象要件や優先度、他制度との組み合わせによって実効性は大きく変わります。
小規模事業者でも活用できる仕組みに
制度の多くは、中小・小規模事業者を想定して設計されており、必ずしも大規模法人や資本力のある事業者だけが対象ではありません。現に、5人規模の保育園、10名規模の通所介護施設、個人運営の診療所でのICT導入支援の事例も増えています。
最後に ― 制度を「使える人」と「使わない人」の差は広がる
すべての制度は「使える人にだけ効果がある」ものです。特に今回のように、制度が複数並行して動いている局面では、専門的な判断と伴走が不可欠です。
「自分の施設は対象になるのか?」「そもそも何を優先して進めるべきか?」──そうした疑問が浮かんだときこそ、専門家に相談するタイミングです。
賃金を上げる。人材を定着させる。離職を防ぐ。これらは、すべて制度を「知っているか」ではなく、「使える状態になっているか」が分かれ目です。
私たちは、医療・介護・福祉分野に精通した社労士事務所として、”制度と現場の橋渡し”をすることを信条としています。難しい言葉を、現場に届く言葉に変える。それが、結果として賃上げにつながると、確信しています。
【参考サイト】内閣官房サイト「第34回 新しい資本主義実現会議」
【参考資料】「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の施策パッケージ案